2010/04
近代製鉄の父 大島高任君川 治


 釜石湾を一望できる小高い丘の上に「鉄の歴史館」がある。入口を入ると映像シアターがあり、ここで大島高任についての説明や高炉による製鉄について子供向きの説明をしてくれる。
 鉄の歴史館には釜石鉱山で採れた磁鉄鉱を展示してあり、磁石が吸い付く様子が判る。鉄鉱石が川を流れて漬物石のように丸みを帯びた“餅鉄”も展示してある。大島高任による高炉築造や釜石で製鉄業に携わった人たちの功績についての展示説明があり、ゆっくり見ていると2時間以上かかる。
 東京を朝早くの新幹線に乗り、新花巻で在来線の釜石行き電車に乗り換えた。ホーム一つの無人駅、やってきた快速電車も3両編成のワンマンカーである。釜石までの約2時間の旅は田園風景の中を走り、途中民話で有名な遠野を通り、山の間を縫って走り昼前に釜石に着いた。このような辺鄙な所が日本の近代製鉄発祥の地ということに先ず驚かされる。
 JR釜石駅前は直ぐ新日本製鐵釜石製鉄所で、♪宮古・釜石・気仙沼・・と歌われる港町の雰囲気は全く無い。製鉄所の壁面に「釜石市市制50周年、近代製鉄発祥150周年」の横断幕が目に付いた。駅前には近代製鉄の父と言われている大島高任の銅像が建っている。
 大島高任(たかとう)は南部藩の盛岡で医者の長男として生まれた。大島家はその昔は馬の獣医であったが、祖父の時代より医者となり、父大島周意(しゅうい)は南部藩の侍医であり、大島高任は藩士としての教育を受けた。
 聡明な大島高任は江戸に出て高名な蘭学者箕作阮甫に入門する。阮甫は医者であるが地理・地質・兵法・造船など広く西洋の学問に通じており、幕府の蕃所調所教授でもあった。幕府の翻訳官としても忙しい阮甫は大島高任を坪井信道の門弟として推薦し、深川木挽町の日進堂に入門させた。
 坪井信道は当時、西洋三大医家の一人で内科学の始祖といわれている。この塾には緒方洪庵や川本幸民などが学んでおり、医学以外の西洋の学問についても大いに勉強したと思われる。
 大島高任は、次に長崎遊学を命ぜられるが、長崎での興味は医学よりも化学や鉱山学、西洋砲術などであった。長崎の師は、上野彦馬の父上野俊之丞や高島秋帆の子、高島浅五郎である。長崎で兄弟弟子の手塚律蔵と共にヒュゲーニンの「大砲鋳造法」を翻訳した。
 このオランダ語の本は当時、鉄製大砲を鋳造しようとする各藩が競って蘭学者に翻訳させた反射炉築造のバイブルであり、佐賀藩、薩摩藩や韮山代官江川坦庵などが手に入れていた。この本には反射炉、高炉、大砲鋳造法などが記載されており、佐賀の伊東玄朴の翻訳本は「煩鉄新書」となっている。
 江戸に戻って伊東玄朴の下で学んでいた大島高任は水戸藩の反射炉築造の主任技術者として招聘される。彼は南部藩の藩士であるから、藩の了解の下で南部藩から派遣された。
 大島高任は各藩が反射炉を造っても大砲鋳造に失敗しているのは、鉄の材料が原因であることを知っていたと思われる。水戸の反射炉築造とともに、地元南部藩に高炉建設の提案をしている。
 南部藩は大島高任に高炉築造の認許はしたが、民間出資で行わせた。釜石の大橋に建設した高炉が成功すると、次の橋野高炉は南部藩直営とした。その後、釜石近傍に5箇所の製鉄所が築かれ、高炉は10基建設されている。この内、橋野高炉跡は研究者たちにより産業遺産として保存されている。
 幕末から明治初期にかけての西洋技術の導入には、直接・間接を別にして外国人技術者の指導で行われるケースが多いが、大島高任の高炉建設は1冊の本を頼りに独自に創意工夫をこらして建設したことであり、将に我が国近代製鉄の父と称えることが出来る。
 明治になって大島高任は維新政府に奉職するが、厚遇されたとは云えない。南部藩が列藩同盟で官軍に反旗を翻したのも関係すると思われるが、明治政府が釜石に建設する製鉄所の業務はお雇い外国人に任され、大島高任は外されてしまう。その後は鉱山開発を主な担当業務とし、銅山・銀山・炭鉱の開発に従事し、明治23年設立の日本鉱業会初代会長に就任している。
 釜石製鉄所はその後、お雇い外国人の失敗で廃業するが、民間の手で再建された。帝国大学出身の野呂景義や香村小録らはドイツの大学で冶金学を学び、製鉄所で実習を積んで帰国し、見事に釜石高炉の操業を成功させた。
 昭和9年には官営八幡製鉄所など併合されて日本製鐵となり、戦後は一時解体されて、再び新日本製鐵釜石製鉄所となるなど、民営⇔官営をくり返しながら発展してきたルーツをもつ製鉄所である。
 日本は昔から製鉄業が進んでおり、主な鉄の産地は広島、島根、鳥取、岡山など中国地方であった。中国山地には花崗岩が多く、これを砕いて川に流して砂鉄をとって原料とする“たたら製鉄”である。粘土で造る炉は一回毎に作り直されるので、熟練の技術者たちが取仕切っていた。
 東北地方も江戸時代から鉄の産地として記録されているが、中国地方に比べると規模は小さく、鉄は岩鉄を使用していた。所謂、鉄鉱石であり、釜石付近の山で採れる鉄鉱石は磁鉄鉱であった。
 日本最初の高炉は釜石から20kmほど内陸の仙人峠の麓、大橋に築造された。この地には現在も釜石鉱山(株)があり、展示室と大島高任顕彰碑がある。この地では露天掘りするほどの鉄鉱石が産出され、木炭をつくる豊富な森林、鞴(ふいご)の水車を回す川の水などの条件が整っていた。しかし、大島高任の地元であったことから日本最初の高炉建設の地となった。記録によると、築造された大橋高炉はヒュゲーニンの本の図面に基本的に忠実であり、1857年7月に着工して11月に完成した。鉄の生産を開始したのが12月1日で、この日を記念して「鉄の記念日」としている。


君川 治
1937年生まれ。2003年に電機会社サラリーマンを卒業。技術士(電気・電子部門)




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